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ケニアから久米島へ 〈ケニアのいちゃりばちょーでぃ〉

はいたい!高2のみすずです。ケニア報告 第3弾はじめまーす!

第3弾ではケニアの文化や人、ケニアで出会った仲間たちを紹介していきます。

 

滞在先のボランティア寮には私のように世界各国からきている、アメリカ、カナダ、中国、イギリス、フランス、ポーランドなど様々な人種のボランティアがいました。

初めての留学でこんなにたくさんの多様性の人々がいる場所に来ることができ、とても勉強になりました。しかし、私は英語がしゃべれません。読み書きができても話すときに単語がでてこないし、聞き取れませんでした。初めのうちはみんなで話すのですが、私が英語がしゃべれないってわかるとみんな話しかけてこなくなるんです。挙げ句の果てに「なんで、日本人は母国語しか話せないんだ。」と逆ギレされました。そう、同じ年頃の子たちはみんな英語がしゃべれるんです。話せないのは日本人だけなのです。世界と日本の差をとても痛感しました。私はコミュニケーションに自信がありましたが、日本からでると気が利いたことも言えず、とても悔しかったです。英語が話せない私は英語で戦うことをあきらめました。

英語はあくまでもコミュニケーションのひとつの手段だからです。なにも英語がすべてではありません。私は留学に行く前、スケッチブックに自分の自己紹介やケニアにきた目的などを写真と簡単な英単語でつくっていました。これを持って、話そうとすると人が集まってきました。みんなスケッチブックに釘付けでした。そのあとに中国の女性の方が、スケッチブックのことを褒めてくれて、中国のお城のカードをプレゼントしてくれました。とても嬉しくて、自分に自信がついた瞬間です。そこから私に英語で話すときは、ゆっくり話してくれるようになりました。

 

ケニアの現地の方は基本は公用語の英語でしゃべりますが、現地の言葉はスワヒリ語です。なので、英語を学校で習っていない子供たちはがっつりスワヒリ語でしゃべってきます。言葉は通じなくても草原を駆け回ったり、バレーボールをして遊びました。

 

ボランティアで民家にエコストーブをつくりに行ったときは、園芸科で普段やっていることが発揮されて、他のボランティアよりも作業が早くて地域の方から褒められました。

「君は日本でなにをしているんだい?」と聞かれて「私は高校で農業を学んでいます。」と会話できました。また民家で飼っているニワトリもみしてもらいました。

 

寮の現地の調理員さんたちと日本人たちで日本の文化を楽しみました。かっぱえびせんや緑茶、味噌汁を食べて飲んで、書道などもしました。書道では“スレイマン”という方がいて、名前の当て字を選んでもらうと“子令卍”となり、周りにいた日本人たちと大爆笑しました。また沖縄の文化であるカチャーシー(沖縄のお祝いのときの踊り)もみんなで踊って楽しい時間となりました。調理員さんたちとはケニアの主食である「チャパティ」を一緒につくりました。調理員さんは私のことを「マイ ドウター」と呼び、娘のように接してくれました。

 

ケニアの子どもたちはとてもフレンドリーでした。「ジャンボ!」とあいさつしてくれます。

子どもたちは「ギブミー シュガー」といって、キャンディをねだりました。私は何となくキャンディをあげていましたが、とても違和感を感じました。与えているだけで本当にボランティアになるのだろうか?このことを留学後、父に話すと「子供たちの口の中をみた?」と尋ねられました。そのときに気付きました。ケニアの子どもたちの歯は黄ばんでいました。歯磨きはしていません。日本では80歳まで20本の歯を残しましょうと言われています。つまり、「歯」が「健康」につながるのです。空腹を満たすためにキャンディをあげる行為は一見すると、人助けに思うかもしれません。でもキャンディをあげ続けると5年後、10年後先の子どもたちはどうなるのでしょうか。与えすぎると依存になってしまいます。支援と依存のバランスの難しさを感じました。国際協力もただお金を集めたり、物を送ったりするだけでは支援にならないことに気付きました。農業、医療、教育などの仕組みを整えて、その国が自立していく方向に持って行くことが大切だと思いました。

 

今回はたくさんの世界の人々と出会い、多様な文化や価値観に触れることができました。故郷である、大阪の天王寺と久米島しか知らなかった私にとって刺激的な大冒険となりました。沖縄には「いちゃりばちょーでぃ」という言葉があります。「一度出逢ったら、みんな兄弟」という言葉です。久米島でもケニアでもこの言葉は通じると確信しました。

 

世界にでて自分の未熟さを痛感しましたが、その分たくさんの人に可愛がられて、助けられました。ケニアで出会った人々に感謝します。その気持ちを忘れずにこれからも頑張ります。